『時津〜長崎〜諫早』
8月9日
 無理を言って朝を少し早くしてもらい、6時30分に朝食をとった。朝、これだけしっかり食べるのも『つぎはぎ日本一周』では本当にめずらしい。普段はビジネスホテルに泊まることが多く、朝食はコンビニが多いのだ。お礼を言って、宿を出た。
 長崎へ向かう。今日は原爆慰霊式典ということで、混雑が予想されるということと、今日が『つぎはぎ日本一周』の最終日ということで、昼すぎには鉄道で伊万里に向かっていたいということもあり、早めに平和公園を訪れることにしたのだ。平和公園は、ものものしい警備がしかれていた。大きなテントが張られ、その中に入るには空港のチェックのように、専用のゲートをくぐる。7時すぎということもあり、まだ、中には人はそれほど多くなかった。厳粛な気持ちになって、原爆祈念像に向かって祈た。

   

 式典が始まるまえだったが、その他の場所にも行っておきたいので、先へすすんだ。次に行ったのは、爆心の中心地とだった。ここにも祈念の塔ができていたり、母子像があったり、被爆当時の地層がそのままの形で保存されていたりした。すぐ近くに原爆資料館があったのだが、8時30分が開館だったので、もう少し時間があった。そこで、最初に浦上天主堂に行ってみることにした。

   

  浦上天主堂、ここは原爆投下されたときにはほとんど崩れ、壁の一部が残るだけというほど、被害を受けた場所だ。今は、再建されて、とても立派な教会となっている。学生のころ、友人と二人で長崎に来たときにも、ここ浦上天主堂には見学に来たことを思い出す。

 

 時間がきたので、原爆資料館に入り、展示物などをじっくり見て回った。平和であることの尊さと戦争がいかにむごいことをもたらすかということを考えさせられた。

  

 一本柱鳥居。原爆が落とされたときに、半分が倒壊して、半分残った場所、後々の人々、我々に原爆の悲惨さを伝えるために残ったのではと思えるようなとても印象に残るある意味衝撃的な場所だと感じた。
 近くの市歴史民俗資料館にも行った。ここには、原爆のこと以外の長崎の歴史についての資料を公開していた。ここも、激坂の上にあり、改めて長崎は坂の町という認識を持った。

   

 長崎といえば、キリシタン弾圧もその一つ。日本二十六聖人殉教地にも行ってみた。以前、現在の日本はいろいろな宗教を受け入れた心が広い民族というように書いたことがあったが、それは、こうしたつらいつらい歴史があって、その上に現在があるのだ、ということを今一度思い起こさせてくれた。最初から受け入れていたわけではないのだ。二十六聖人が十字架に張り付けられて、下から槍で突かれている絵が心に残った。
 長崎のあちこちに昔ながらのアイスを売っていた。ここで、一つ食べてみた。懐かしい味がした。

   

 次に向かったのは中島川にかかる眼鏡橋。ここも、とても有名な場所なのであるが、この橋以外にも、たくさんの石橋がかかっていた。ちょうど、眼鏡橋付近にいるころ、原爆が落とされた11時2分になり、サイレンが鳴り響いた。そこに直立姿勢をとって、黙祷をした。

 オランダ坂にも行ってみた。以前ママチャリでオランダ坂を上るというようなテレビ番組を見たことがあったが、ビアンキで挑戦してみた。なんとかクリアすることができた。ちょっと安心した。

  

 学生時代に長崎に旅行に来たことは以前にも書いたが、ここ長崎ではユースホステルに泊まるときに、ちょっとしたトラブルがあったので、よく覚えている。ユースホステルに着いたときに、荷物を置かしてもらい、代金を先払いして、その足で夜景を見ようと稲佐山まで上ったのである。しかし、頂上付近は渋滞していて、とても門限までに帰ることができそうになかった。
 ユースホステルといえば、当時門限などもうるさいと思っていたので頂上の電話ボックスから、「今からでは間に合いそうにないから、キャンセルします。キャンセルしたら、代金を返してもらえますか?」(貧乏学生には、ユースホステル代も貴重なのだ)と電話したところ、返してくれるという返事。門限を過ぎて荷物と代金をとりに行ったところ、電話での話と違い、代金は返すことができないという。そこで、私と友人は憤り、ちょっとけんか腰になった。私は、早くこういう雰囲気の中から出たかったので、代金はいらないから出ようと友人に言ったのだけれど、友人はおさまらないらしく、しつこく食い下がっていた。結局、代金は返してもらうことができたのである。とても印象に残った出来事だった。
 しかも、その後、キャンセルしたのはいいけれど、遅い時間なので、他に泊まることができそうなホテルを見つけることがなかった。ということで、結局、そのユースホステルのすぐ前にある学校の校庭に車を停めて、その中で2人が野宿をしたのだ。なんとも、間抜けな顛末ではあるが、これぞ、学生の旅!として私の記憶にはしっかりと刻まれたのであった。そのときのユースホステルもオランダ坂の近くに見つけることができた。しかし、今ではグループホームとして高齢者が共同で暮らしている、そんな施設になっていた。そして、野宿をした学校もそのまま、そこにあり、なつかしくなり校庭までのぼってみた。

   

 最後に長崎といえばグラバー園ということで、3回目かな?中に入ってみた。やはりいつ来ても美しい。グラバーがここに家を建てた気持ちが分かるとても美しい眺め。贅沢な場所だ。
 ただ、今回は、いつもの入場口とはちがい、グラバー邸のすぐ横の第2ゲートから入った。ここは、グラバースカイロードという斜めのエレベーターのようなものを利用して入っていくところこのエレベーターは近くの住民も利用しているようで、9日(原爆慰霊式典)が出校日の長崎の子どもたちが、学校の帰りの時間だったが、一緒に利用した。

     

 グラバー園を出て、長崎くんちが飾ってある資料館をとおり、外に出た。そこはお土産もの屋さんが軒を並べていた。中に坂本竜馬関連のお土産を売っていたところを見て、そういえば、長崎といえば、亀山社中として竜馬が活躍していた場所だったなあ〜などと思い出した。探せば、竜馬関連の名所もあるのだろうが、今回は残念ながらもう、時間が迫っているので、竜馬関連は見ないまま、長崎をあとにすることにした。ちょっと残念。隣にある大浦天主堂も写真だけ写して先を急ぐことにした。

    

 次の目的地は諫早である。諫早といえば干拓地を思い出すが、今回は最後に距離を伸ばすという目的のためなので、干拓地は次回に回すことにして、とにかくハイスピードで進む。長崎市から、諫早へ国道38号線を進む。途中、長崎の水がめであろう本河内底部水源池を通ったが、ダムのすぐ下に民家がずらーと立ち並んでいるのが印象的だった。まあ、ないのだろうが、もし、決壊でもしたら、このあたりの民家は危ないと思うのだが・・・。
 諫早へ向かう国道で、ついにやってしまった。ここで、言うのはどうかな〜とも思うのだが、下り坂で、前をゆっくり走っていた原付をぬっ抜いてしまったのだ。申し訳ない。
 ということで、諫早には午後2時ごろ到着。
 ここからビアンキを輪行バックにいれ、JRで有田まで行き、そこから松浦鉄道で伊万里まで行った。接続などで、ちょっと時間をとったが、午後5時30分ごろには伊万里についた。そこから益田まで、高速を利用して帰ることになる。結局益田についたのは、10時ごろだったように思う。行き帰りもどんどんハードになっていく『つぎはぎ日本一周』今後の展開はいかに?
 今回初めて3日間連続でやったのであるが、これぐらいやると、結構満足する。2日目の途中からお尻が痛くてまいった。こんな状態になったのは初めてだったので、これから連続する走行のときには十分注意していこう。

  

  走行距離  52.32キロ
  平均時速  15.4キロ
  日本二十六聖人記念館入館料 250円
  グラバー園入館料         600円
  JR      諫早-有田    1250円
  松浦鉄道  有田-伊万里   410円
  高速代    武雄北方-小郡 5150円
  駐車料金3日分         2900円
















『つぎはぎ日本一周』